憲法第9条がどのような背景から、どのような目的で成立したか。第9条が戦後日本政治の重要な争点の一つであったこと、そしてまた他国の憲法には類を見ない規定であることから、このテーマに対する関心は一般にたかい。
しかし、研究となると、このテーマは第9条の発案者探しの格好をとることが殆どであった。主な説は2つある。一つは、46年1月24日に行なわれた幣原喜重郎のマッカーサーとの会談の際の発言に”起源”を求める。この会談で幣原が述べた「戦争を放棄する」「日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい」という発言が、46年2月3日のいわゆるマッカーサー・ノート第2項となり、9条制定の法条のうえでの始点となったという説(*1)である。
もう一つは、マッカーサー・ノート第2項は「天皇裕仁の戦争責任問題と深い関わり」があり、天皇裕仁に対する戦争責任を免責し、「退位を思いとどまらせる」といったマッカーサーの意図と不可分であるとする説(*2)である。
前者は、その時点での当事者の言動に裏付けられたものではなく、もっぱら後の時点での発言に依拠している点で、初歩的な実証性に欠け、いわば後知恵説といったものである。
これに比べると後者は実証性が高いように見える。しかし、①天皇裕仁の戦争責任は46年に入って急に問題化したのではなく、マッカーサーが日本の政治指導層に改憲の必要性を示唆した45年9月下旬から10月上旬の時点で既に国際政治上で鋭く問題にされており、この時の改憲示唆ではマッカーサーは9条に繋がるような助言はほのめかしてもいなかった。また、②マッカーサーは天皇不訴追の方針を固めており(1月25日極秘電)、極東裁判における国際検事局は天皇不訴追方針に立つ米国が主導することが決まっていたので、戦争責任免責はいわば制度的に保障されていた。
つまり、46年1月下旬〜2月上旬の時点で、天皇裕仁の戦争責任に対するカバーは、45年10月時点よりも既に厚くなされており、この時点で戦争責任に関わる対応を憲法の上で新たにとる必要性を見いだすことは難しいのである。後者の説はこの点に応えていない。
そもそも戦争放棄・戦力不保持という内容は、ある個人の発案で決まるような軽い事柄なのであろうか。当時、アメリカ国務省は、米ソ英中4カ国による日本非武装化条約案を提案しようとしていた。これに対抗して急遽入れられたのがマッカーサー・ノート第2項ではなかったか。これが私の仮説であり、この研究ノートでは、この仮説を立証する(*3)。
注1.代表的なものとしては、深瀬忠一(1987)『戦争放棄と平和的生存権』137~138頁
注2.古関彰一(1989)『新憲法の誕生』102~107頁、(2002)『「平和国家」日本の再検討』5頁以下
注3.三輪隆(1998).「日本非武装化条約構想とマッカーサー・ノート第2項」『埼玉大学紀要 教育学部(人文・社会科学編)』47(1), 55頁、同著(2007).「1945~46年の憲法改革過程における非武装条項導入の背景」『総合研究機構研究プロジェクト研究成果報告書』5
ノートの大まかな構成は以下のとおりである。
【1】戦争終結、「国体護持」、対日安全保障
1.「国体護持」と戦術的平和論
−1)酒井鎬次、石原莞爾、岩淵辰雄の戦術的平和論
−2)幣原の役割
2.米国の対日戦後政策における非武装化と天皇問題
−1)天皇問題と至上課題・対日安全保障と
−2)集団的安全保障、琉球、単独占領
【2】対独・対日占領管理問題と非武装化条約案
1)ドイツ占領管理問題
・ 大国協調路線と東欧占領管理問題
・ ドイツ占領管理の行き詰り
・ 政経分離と対独非武装化条約提案
2)日本占領管理とのリンク
・ 2つの外相会談
・ 極東委員会と憲法改革権限
3)マッカーサーの野心と国務省
4)非武装化条約の挫折
【3】マッカーサー・ノート第2項から第9条へ
1)ハリマン・マッカーサー会談
2)マッカーサー・ノート第2項と民政局の作業
3)憲法条文化
【4】エピローグ:初期の講和条約準備
しかし、研究となると、このテーマは第9条の発案者探しの格好をとることが殆どであった。主な説は2つある。一つは、46年1月24日に行なわれた幣原喜重郎のマッカーサーとの会談の際の発言に”起源”を求める。この会談で幣原が述べた「戦争を放棄する」「日本は軍事機構は一切もたないことをきめたい」という発言が、46年2月3日のいわゆるマッカーサー・ノート第2項となり、9条制定の法条のうえでの始点となったという説(*1)である。
もう一つは、マッカーサー・ノート第2項は「天皇裕仁の戦争責任問題と深い関わり」があり、天皇裕仁に対する戦争責任を免責し、「退位を思いとどまらせる」といったマッカーサーの意図と不可分であるとする説(*2)である。
前者は、その時点での当事者の言動に裏付けられたものではなく、もっぱら後の時点での発言に依拠している点で、初歩的な実証性に欠け、いわば後知恵説といったものである。
これに比べると後者は実証性が高いように見える。しかし、①天皇裕仁の戦争責任は46年に入って急に問題化したのではなく、マッカーサーが日本の政治指導層に改憲の必要性を示唆した45年9月下旬から10月上旬の時点で既に国際政治上で鋭く問題にされており、この時の改憲示唆ではマッカーサーは9条に繋がるような助言はほのめかしてもいなかった。また、②マッカーサーは天皇不訴追の方針を固めており(1月25日極秘電)、極東裁判における国際検事局は天皇不訴追方針に立つ米国が主導することが決まっていたので、戦争責任免責はいわば制度的に保障されていた。
つまり、46年1月下旬〜2月上旬の時点で、天皇裕仁の戦争責任に対するカバーは、45年10月時点よりも既に厚くなされており、この時点で戦争責任に関わる対応を憲法の上で新たにとる必要性を見いだすことは難しいのである。後者の説はこの点に応えていない。
そもそも戦争放棄・戦力不保持という内容は、ある個人の発案で決まるような軽い事柄なのであろうか。当時、アメリカ国務省は、米ソ英中4カ国による日本非武装化条約案を提案しようとしていた。これに対抗して急遽入れられたのがマッカーサー・ノート第2項ではなかったか。これが私の仮説であり、この研究ノートでは、この仮説を立証する(*3)。
注1.代表的なものとしては、深瀬忠一(1987)『戦争放棄と平和的生存権』137~138頁
注2.古関彰一(1989)『新憲法の誕生』102~107頁、(2002)『「平和国家」日本の再検討』5頁以下
注3.三輪隆(1998).「日本非武装化条約構想とマッカーサー・ノート第2項」『埼玉大学紀要 教育学部(人文・社会科学編)』47(1), 55頁、同著(2007).「1945~46年の憲法改革過程における非武装条項導入の背景」『総合研究機構研究プロジェクト研究成果報告書』5
ノートの大まかな構成は以下のとおりである。
【1】戦争終結、「国体護持」、対日安全保障
1.「国体護持」と戦術的平和論
−1)酒井鎬次、石原莞爾、岩淵辰雄の戦術的平和論
−2)幣原の役割
2.米国の対日戦後政策における非武装化と天皇問題
−1)天皇問題と至上課題・対日安全保障と
−2)集団的安全保障、琉球、単独占領
【2】対独・対日占領管理問題と非武装化条約案
1)ドイツ占領管理問題
・ 大国協調路線と東欧占領管理問題
・ ドイツ占領管理の行き詰り
・ 政経分離と対独非武装化条約提案
2)日本占領管理とのリンク
・ 2つの外相会談
・ 極東委員会と憲法改革権限
3)マッカーサーの野心と国務省
4)非武装化条約の挫折
【3】マッカーサー・ノート第2項から第9条へ
1)ハリマン・マッカーサー会談
2)マッカーサー・ノート第2項と民政局の作業
3)憲法条文化
【4】エピローグ:初期の講和条約準備
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